不登校児だった。
高卒認定を経て、大学に進学。就職したりもして、今は自営業で暮らしている。
今、ふりかえって思うことは、不登校でもぜんぜん生きていけるってこと!
合わない場所はさっさと脱出したほうがいいよ、とか、年齢が達したらすぐにでもバイト始めるといろいろ自分の特性がみえてくるよ、とか、当時のわたしに伝えたいことは山ほどあるけれど……
今日は、不登校というラベルに頼らないで生きていく準備は、早ければ早いほどラクだよ、という話を。
ある友人の話。
双子として生まれて、双子で同じ小学校・中学校・高校を出て、双子でず〜っと一緒に生きてきて、はじめて大学でふたりが別々に生きることになった。そのときに急激に「自分ってなんなんだろうと迷子になりそうになった」と。
いつもいつでも同じ顔の存在がそばにいて、いつも「双子のナニナニちゃん」だったから、ひとりになった途端に、自分を説明する言葉がわからなかったという。
「双子ってだけで目立つからね〜。双子って不便だけど、便利だったんだなとも思うよ。すぐ覚えてもらえるしね」。そんなことを言ってた。
すこし違うかもしれないけど、なんとなく似た感覚に思えたのが「不登校」だった。
不登校も、良くも悪くも、目立つ。
不登校というだけでわたしという人間の全てが不登校で片付けられる感じが、雑だなぁと思っていた。
100歩譲って、平日の日中、授業が行われている時間に家にいることで「不登校の鈴木さん」が議題になるのは仕方ないかもしれないけど、学校が終わった夜の時間帯とか、みんなも学校が休みの週末とか、夏休みにまで「不登校の鈴木さん」扱いされることが謎だった。え、わたしただの14歳なんですけど、みたいな気持ちを抱いたのをすごく覚えてる。
ただ、正直にいうと、ちょっぴりの優越感は確かにあった。人と違う特別なわたし、みたいなやつ。今思えば痛い目にあったほうがいいよ……と思うようなわがままも、ちょっとがんばりなさいよ……と思うような怠惰も、「不登校だから仕方ない」と許されて(諦められて)いた。周りが「いいよ、無理しなくて」と言ってくれるから、「あら、そう、ラッキー☆」と思ったことも1回や2回ではない。(ごめんなさい……)
だけど、不登校が不登校であるのは、学校にいるうちだけ。学校に籍がある間は、不登校であることはそれだけで個性になるかもしれないけど、社会に出たらまったく個性ではなくなる。特に差別もされないし、配慮もされない。何千回「不登校の鈴木さん」と言われてきたとしても、そのラベルはあっさり消える。仕事で遅刻し続けたらクビになるし、20歳になって30歳になって「元不登校の鈴木ですっ!」なんて自己紹介をすることなんて、まずない。
不登校というラベルは、いつかは必ず消える。だから、「不登校のわたし」を自分の全てにする必要はない。
不登校ってことはそれはそれとして、「料理が得意なわたし」とか「数学が好きなわたし」とか、いろんなわたしの表現の仕方を増やしておくといい。
「〇〇の鈴木です」。
〇〇にあたる「ラベル」は、変わっていくものだと思う。それに、ひとつじゃなくて、いくつもある。
大人だって、子どもだって、それは一緒。365日、職業を名乗らなくていい。24時間、中学生じゃなくていい。そのまえに、みんな、ただの人間を生きてる。
お粥研究家の鈴木さんであり、エンジニアの鈴木さんであり、ほにゃららさんの妻の鈴木さんであり。
ウクレレが好きな鈴木さんも、サンバが好きな鈴木さんもいるから、元不登校児の鈴木さんって表現を使う機会が全然ない人生が、今は、すごくたのしいです。