「うわっ!この醤油差し、実家のと同じだ!」
「えっ!うそ!この壁掛け時計、昔の家で使ってたやつと一緒!」
……という類の、「言ってもどうしようもないのに、なんか言いたくなっちゃうシンクロ」が大好きだ。
あるモノを介して、自分の世界とこの場がつながる、妙な感覚。
自分以外の人にはまったく関係ないのに、どうしてだろう、スルーできずに共有したくなる。
「あ……!このリモコン、おばあちゃんちのと同じだ……!」と、人が「言ってもどうしようもないのに、なんか言いたくなっちゃうシンクロ」に驚いているとき、その反応はほとんど素に近いように思える。
遠い存在に思えていた立派なあの人も、知的でおしゃれで都会的なあの人も、みんな、思わず口から声がでちゃった、って感じになるのがうれしくて、わたしも思わず「あ〜〜〜〜!わかる!そういうのありますよね……!謎にシンクロするやつ……!あるある!」と妙にテンションの高い反応をしてしまう。
あの感覚は、何なのだろう。
たとえば、家の中で、いつもはあの部屋にあるスリッパが、この部屋にあったとしても、「うわぁ!このスリッパ……!」とは、ならない。
ところが、昔使っていたお気に入りのスリッパと全く同じものが歯医者さんにあったら、「うわぁ!このスリッパ……!」と、なる。
歯医者と家、過去と今、あちらとこちら。
きっと、人は気づかないうちに、あちらの世界とこの場とに、境界を持っている。
ふだんは意識しないけれど、ちょっとした「モノ」を介して、境界がふと、立ち上がる。わたしが地続きの日常と思っているものは、わたしが思うよりいろんな線で区切られているのだろう。わたしの日常という平面的なつながりと、わたしの人生という時系列的なつながりは、いくつもの「切れた」世界の集合体なのかもしれない。こことここが交わるわけがない、と無自覚に引いた線がみえたとき、間違いなく、そこには境界がある。
日常はいくつもある。
境界に触れたとき、ふと、日常が揺さぶられるあの感覚を、たのしめる自分でありたい。