人間にはA面とB面がある。
他者に見られる前提の社会的な姿(A面)と、他者に開示しない前提の個人的な姿(B面)である。
たとえば本棚ひとつでも、客人を招くリビングの本棚は「A面的」で、自分の布団のそばに並んだ本の山は「B面的」だ。きっと、それぞれに並ぶ本のタイトルは、大きく異なる。
幼いころからなぜかこういう視点でものをみる癖があって、「あ、これはA面にふとB面が出ちゃった感じだな」とか「なるほど、A面に訴えかけるいいキャッチコピーだな」とか、情報整理の場面でなにかと活用している。
大まかに、あらゆるコンテンツがA面からB面に移行しているように感じる。
コンテンツに形があった時代は、A面の領域が強かった。音楽にはレコードやCDという形があり、「紙の本」という言葉は存在しなかった。どんな音楽や本を所有するかは、コレクション的な側面があり、自己表現の一部でもあったと言える。
今はどうだろう。音楽サブスク時代に突入した現代では、所有なく音楽に触れることができる。自己紹介で好きな音楽として挙げるものと、実際に人々が聴いている音楽との乖離はどんどん大きくなっているのではないだろうか。音楽が形から切り離されることで、真の意味でパーソナル(B面)に触れられるようになったと言えるのかもしれない。
本もわかりやすい。電子書籍は「B面的」な本への買いやすさを加速させた。『貯金ゼロから貯金体質に』とか『嫌われたかも?と思ったときに読む本』みたいなB面に訴えかける本(=ジャケ買いの真逆の本)は、パーソナルな電子媒体でポチる人が多いはずだ。
わたしのおかゆにも「A面的」なものと「B面的」なものがある。
正直、SNSやサイトにレシピをアップする前提の有無で、盛りつけの程度は明らかに異なる。酔った勢いでつくるB面のおかゆは、ごった煮のぐちゃぐちゃ粥だったり、なんならお鍋のまま食べちゃったり、おいおいお粥研究家って感じの代物だ。
たぶん、いわゆるバズりやすいものは、そういうものなんだろうなと思う。B面っぽいやつ。
でも、当たり前なのだけど、そういう「B面的に見えるリアルっぽいやつ」は、ほとんどが加工された「A面の代物」だ。わざわざ写真を撮って、SNSに「わたしのリアルです」と公開するねじれの作品。超加工食品ならぬ、超加工コンテンツである。
受け取る側の視点に立つと、超加工コンテンツは、つかれる。B面っぽい加工をしたA面コンテンツのあざとさに気づかぬまま大量に触れていると、謎の脳疲労というか、自己嫌悪や窒息感にも似たドロドロが湧き上がる。そりゃそうなのだ、B面に見せかけた、強烈なA面なのだから。
A面はA面で、B面はB面で、それでいいのだと思う。
サブリミナルにあれこれ仕込んだ加工物は、否応なく広告の世界からさんざん降ってくる。一個人がせっせと加工しまくる意味も、加工物を自らホイホイ取り込む習慣も、不毛なものにさえ思えてくる。
それに、どれだけA面をきっちり演じてるつもりでも、B面は否応なしにチラッと出てきてしまうものだ。
わざわざ加工に労力を払わなくても、わたしがどういう人間かみたいなものは、ダラダラ漏れ出ているのだろう。