人は、他者に見られる前提の社会的な姿(A面)と、他者に開示しない前提の個人的な姿(B面)を持っている……という、わたしの捉え方の3つ目のお話。
今回は「言葉」について考えてみる。


2010年代は「伝え方」の本をよく見た気がする。相手にどう響くか、どう印象づけるか、どう行動させるか。言葉は他者との関わりのための道具で、相手に伝わらないと価値がないのと同じ〜みたいな強烈な思想が蔓延っていた。
2020年代になり「言語化」がスキルとして挙げられるようになった。気づき、感情の表出、非言語領域の言葉への置き換え。言葉にできない非言語の領域は膨大だという当たり前の事実に、多くの人が気づいたのかもしれない。
わたしは、2010年代の「伝え方」も、2020年代の「言語化」も、どちらも広義の「言語化」だと思う。
「伝え方」は、他者に見せるための言語。つまり、A面としての言語化。
「言語化」は、自分の感情・思考を見つけるための言語。イコール、B面としての言語化。
世の中で語られる「言語化力」は、実際のところ「伝え方」の言い換えになっている領域を多く含んでいる。言語化が「言い得て妙」みたいなものなら、それはキャッチコピー・コピーライティング的な、バリバリA面領域の「伝え方」だからだ。
A面的な言語化には、「正しさ」「わかりやすさ」「伝わること」が求められる。相手に届かなければ、その言葉の言語化は不十分という判断が下される。(=伝わらないと価値がないとされた、伝え方ブームの時と同じ構造!怖!)
世間の言語化のススメではほとんど語られないけれど、B面の言語化は、生きていくために、とてもとても、大事なものだ。つまり、他者に見せない前提の、心理的安全が確保された場所での、自分のための言葉のことである。
B面的な言語化は、「曖昧さ」「混乱」「言葉にしてみたけどなんかしっくりこない違和感」が許される。許されるというか、そういうぐちゃぐちゃの連続だ。それに、同じ言葉を何度も繰り返したり、ぜんぜんかっこよくない幼稚な言葉が多々出てくる。
でも、人の心の実際が、そういうものなのだと思う。
究極、「好き」「嫌い」「気持ちいい」「不快」「おもしろい」みたいな、3歳レベルの語彙で表現できる根っこの感情が言語化(認知)できなければ、全ての表現がズレていってしまう。そもそも自分がどう思っているかの本音の部分の認識がズレていたら、A面化しようにも、行動しようにも、すべてがズレて当然だ。
生きていると、すぐに役に立ちそうなA面領域のスキルが、足りない気がしてくる。
でも実際には、誰にも見せないノートや日記、誰にも聞かれない独り言、自分を知っている人がひとりもいない場所でのぼーっと時間……こういうついつい後回しにしてしまう自分のためのB面領域の手入れが、A面の根っことなり、生きる意味を生む。
A面は、誰かに何かを伝えるために美しい言葉を生み出す。
一方で、B面のまとまりのない言葉も、比べられないほど、かけがえのないものだ。B面の豊かさは、言葉じゃなくても、音楽でも、踊りでも、描くことでも、なんとでもなる可能性を秘めている。