行列に並ぶという趣味について 時間を消費する行為の再評価|雑記#0047

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「早朝の○時から並んでいます!」
「○時間並んでやっと買えました〜!」

……といった、行列に並ぶ行為に対して、なんて効率が悪いんだろうと思っていた。さっさとシステムを構築して待ち時間なく円滑に売れる仕組みを作ればいいのに、と。

一方で、愚かな行為として見下すような論調に対しても、なんとも言えない違和感があった。

無駄に思えるが、無駄と非難する言葉への違和感。このギャップの源を考えてみた。

もくじ

「行列」は、効率ではなく“趣味”の文脈で見た方がしっくりくる

たしかに「行列に並ぶこと」は非効率な行為である。IT社会が進んだ現代では、あらゆる順番待ちに対して解消方法自体は確実に存在している。

一方で、非効率に価値が見出される場面はいくつもある。身近な例として、非効率だが体験に価値があるものを、人は「娯楽」や「趣味」と呼ぶ。

たとえば登山は、非効率だが体験に価値がある「趣味」である。登山の目的は、効率的に山頂に到着することではない。登山の醍醐味は、支度をして、工程を組み、山頂を目指して歩みを進める過程にある。ヘリコプターで山頂に向かっても「そうじゃなくてw」という話だ。

行列に並ぶ人が、行列を経て何かを手に入れるという「過程」に価値を見出しているのだとしたら、それは立派な娯楽であり、趣味と言えるのではないだろうか。

ただ単にモノを手に入れるための手段ではなく、「夜通し並んで手に入れた〇〇」「炎天下の中一人で待ってやっと買った〇〇」という、入手までの過程に価値を見出しているのだとしたら、それはひとつの豊かな時間の使い方だ。

生きがい格差を埋める、時間がある人の社会との接点

コロナ禍で多くの人が見舞われた「今日という時間をどのように過ごすか」という課題は、しんどさを伴うものだった。なにかの役に立てること、今日に目的があること、出かける理由があること。これらが揃っている状態は、当たり前ではない。

高齢化が進み、孤独が社会問題になりつつある社会では、生きがいの創造は喫緊の課題だ。「今日という時間をどのように過ごすか」という課題が日常である人は、これからも増えていく。

今日という日に達成感が得られる「行列に並ぶ」という行為は、生きがい格差を埋める、時間がある人の社会との接点として機能しているのだとしたら?

行列を解消することを求めるのは、野暮な発言なのかもしれない。お祭りの屋台に対して「スーパーの方が安い」と言ったり、ヘリコプターで山頂を目指せば楽なのにと罵るように。

まとめ:行列に並びたい人と、効率を求めたい人の共存

行列に並ぶことに対して「やってられない」と思う人がいる一方で、 「わたしには今日並ぶ用事がある」というだけで心が満たされる人もいる。生きがいに満たされた側の人が、生きがいを見出して日々を過ごす人に対して「非効率」と非難することは、あまりにも暴力的だ。

生きがい格差、生きがいの多様化、と捉えることで、始まる思考があるのかもしれない。

「行列に並ぶ」という行為は、実は社会の余白にある静かな趣味とも思える。つまり、行列は確実なビジネスチャンスだ。効率を求めたいと、行列に並びたい人が共存できる方法を、模索する議論が高まるといい。

たとえば、行列がただの待機列じゃなくて、「生きがいを求めるゆとりがあること」の象徴の場だったら?
並びたい人の「時間」が、誰かの「並べない事情」を支えるようなしくみが生まれたら?

そんな未来は、おもしろいと思う。

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運営者情報

お粥研究家。24時間おかゆのことを考えている人。「食事でじぶんを整える」をテーマに、毎朝の自分の体調に合わせたおかゆを作っている。お粥を作るのも食べるのも見るのも大好き。

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