映画『国宝』のネタバレ含む感想です。
一週間ほど前に鑑賞した『国宝』。あまりに圧倒されてしまって、どう思ったもこう思ったもうまく言葉にできず。やっと言葉にできそうな気がしてきたので、まだアツアツなうちに残しておきます。
全力を出しきれないしんどさを経験したことがある人、マイノリティやアウェイである苦しみを覚えたことがある人、ただただ美しさにうっとりしたい人に、ぜひ!!!!!と思う作品でした。
思ったこと、感じたことの覚書
作品の概要や分析、原作との相違などは、たくさんの方が書いていると思うので、ここでは映画『国宝』を鑑賞して感じた個人的な感想を3つほど。
①純血の弱さ、外からの血の強さ
作品の見どころについて「世襲か、才能か」という文脈で語られることが多いようだが、この作品はガッツリ才能が主題の話だと思う。あくまでも主役は、才能にあふれた、努力を惜しまない、外からの血を持ったキクオなのだ。
そして、作品自体がまさに「外の者だからできること」を体現している。これが、この作品の醍醐味だと思った。監督が在日朝鮮三世の方という点も、カメラ監督がチュニジアの方という点も、俳優陣が歌舞伎役者ではないという点も。
もし、日本のスタッフで固めて、現実の歌舞伎役者のキャスティングでこの作品がつくられたとしたら、作品の質感は全く違ったものになっただろう。歌舞伎の世界からは遠い人たちによって、歌舞伎の世界が表現されたことで、強烈な才能への肯定が生まれた。わたしを含め、作品を見る側のほとんど全員が「歌舞伎の外の世界の者」なわけで、「純血の弱さ、外からの血の強さ」に、共感し、エキサイトしたのだと思う。
歌舞伎の世界に生きて、人生を歌舞伎に捧げ、歌舞伎の美しさを伝えようとしている方々は、この『国宝』フィーバーに対してどんな気持ちになっただろう。中にいる自分にはできないことをよくやってくれた!と称賛を送るのだろうか。それとも、よそ者が!と、強烈にくやしく思うのだろうか。そんなことを感じた。
②受け継がれた「血」。感動ではなく継承だったという視点
作品の終盤、人間国宝となったキクオを撮影する女性が、実は娘だった、というシーン。感動だよ〜映画だよ〜…!とうるうるしたのだが、時間が経って「ひょっとして……」と思うことがあった。
相手は人間国宝。個人で近づけるわけはなく、彼女にも所属があり、立場がある。カメラマンが私情で声をかけるなんて、プロとしてはあってはならない行為だ。しかし、しかしである。あの言葉が、もしも、いい表情を撮るための手段だったとしたら……?「いい仕事のためなら手段を選ばない」、父譲りのプロ意識だ。
死の間際にも堂々と相手から目を逸らさなかった、任侠のキクオの父。そして、悪魔と取引して全てを捧げてでも芸に邁進したキクオ。その「人間国宝」の、いい表情の写真に収めるために「心を揺さぶる言葉をかけた」娘。一流の、プロ意識を持つ「血」だ。
感動演出のためのシーンではなくて、これは「血も受け継がれる」という表現だったとしたら……すごい、すごすぎる……とゾワゾワしたのだった。
③業が生むエクスタシー
自分の能力を発揮できない環境に置かれることは拷問だ。人の能力や本質的な価値が、構造や環境によって発揮されない状態は「罰」や「追い込み」に使われるほどの苦しみである。人間の尊厳が奪われ、生活が、精神が、崩れていく。
『国宝』では、まさにその「抑圧された才能」が臨界点を超えたときの爆発が描かれていた。
才能があればあるほど、可能性があればあるほど、くすぶる火種は大きくなる。そして、くすぶる火種が大きければ大きいほど、発揮されたときのエネルギーは、爆発的なものになる。神秘とも宗教とも近い領域の、圧倒的な力……精神的なエクスタシーとても表現できるかもしれない。抑圧を経た、快感の最高潮の美しさに飲まれ、何度固唾を飲んだだろう。映画の中のあらゆるの抑圧の表現が美しさに昇華され、すごく気持ちよかった。「すごいものを見てしまった……」と感じた源は、この繰り返される爆発的な気持ちよさにあるのかもしれない。
まとめ
すごい量の「美しさ」を浴びられる作品だった。
歌舞伎の舞台を見に行ったのではのぞけない、映画だからこその「寄り」のアングル含め、ここまでまじまじと美しさに触れられる体験はそうそうない。映画館の大スクリーンで鑑賞できて、大正解だった。
そして、誰もが少数派(アウェイ)になる世界がある。正統の世界からは、できない表現があるという可能性に、興奮と希望を抱かせてくれる作品だった。
わたしのお粥研究家歴は5年ほどである。まったく料理の世界での経歴がない自分が、お粥研究家という立場を名乗ることに、負い目を感じる瞬間は今でも度々ある。料理人の家系でとか、10代から料理の仕事をしていてとか、国家資格をもっていてとか、いくらでも「すごい人」がいる世界だからだ。一方で、料理の世界ではアウェイだからこそ、わたしはオリジナルでいられている、とも思う。料理界の一般常識を、良くも悪くも知らないことでできることが確かにあるのだ。
作品を見て、アウェイで居続けなきゃなと思った。自分が心地よい場所にいては、「爆発」は起きないのだから。
素晴らしい作品でした。