「着心地のよい服」「肌に馴染む服」を超えた「肌化した服」と呼ぶ服がある。ウン年モノの、部屋着の異名だ。
着ている間、肌化した服はわたしの一部となっている。着ていない間も、そこに肌化した服があるだけで、いつでも帰れる心理的安全を所有している手応えを感じることができる。
肌化した服を捨てるという選択肢はない。別れは消耗の果てか、失踪(紛失)に限られる。なぜなら肌化する服はたいへん貴重であり、永久欠番だから。わたしは、一生のうちで、何枚の肌化する服と出会うことができるのだろう……服を見つめながらそんな思いがかすめてしまううちは、まだ、その服はわたしに肌化していて、ほかのどんな服にも同じ役割を担わせることはできない。
「部屋着」というものを買うようにしている。外着を二軍にする形で部屋着にし始めると、服を買う基準と服を手放す基準がグラついてしまうから、あくまでも外着は外着、部屋着は部屋着と分けて、出入り口を設計するよう心がけている。
ところが、肌化する服は、出会いから妙である。
外着っちゃ外着だし、部屋着っちゃ部屋着になりうる、そんな感じの出会いなのだ。
フェスの限定シャツ、プレゼントでもらったTシャツ、間に合わせのつもりで旅先の気候に合わせて買った服。美術館で一目惚れしたもの、大会の参加賞、仲間と揃えで作ったオリジナル、開店○周年の記念……
着るシーンが限られるけど外着っちゃ外着だし、部屋着っちゃ部屋着になりうる。こういう服のなかに、ときどき、じわじわと肌化してくれる者が現れるのだ。たぶん、思い出という要素も、肌化には重要なポイントなのだろう。
「さあ、この服を馴染ませよう!肌化させよう!」と思って肌化させられるわけではないし、「よし、この夏は肌化しそうな服に出会おう!」と決めて出会えるわけではない。
だけど、ちょっといつもと違うことをしたときに肌化する服との出会いはあって、そしてその出会いがずっと温かかったりする。
自分から設計できるわけではない非日常ところに、肌化する服との出会いはある。
いつの間にか「元気にしてるかな〜」とふとしたときに気にかけるようになっている友達との出会いと、すごく似ていることに気がついた。