お粥研究家として、どうしても備蓄米をおかゆにしてみたかった。普段のお米とどんな違いがあるのか興味があったのだ。
ファミリーマートで6月5日に発売開始となってから約10日後、やっと1kgの備蓄米を手に入れることができた。
いざ備蓄米を手に入れて、実際におかゆを作れる状況になったとき、ふと頭をよぎった。
「もし、まずかったら、どうしよう……?」と。
「まずい」と言う、社会的な怖さ
まず現実の結論として、備蓄米のおかゆはとてもおいしかった。こざっぱりとした味わいも、しっかりとした粒感も、あえてこの仕上がりを望む人も多いだろうなと感じた。リゾットでは新米よりも「ビンテージ米(古米)」が好まれるように、古米を使うからこそのおかゆのおいしさも間違いなくあると思う。(詳しくはレシピ記事『【レシピ】備蓄米の白粥【お粥研究家の粥日記2025/06/17】』で)
備蓄米はおいしかった。よかったよかった、めでたしめでたしではあるのだが、一方ではじめに思った「不安」の余韻がどうしても消えなかった。
もし、備蓄米のおかゆがおいしくなかったら、わたしはどうしただろう?
マイルドに「残念ながらおかゆ向きではないのかもしれません……!」と発信しただろうか。それとも、発信自体を慎んだだろうか。
正直、どれだけオブラートに包んで発言しても、相当な炎上リスクがあると思った。これだけの米不足の状況で、やっと現れた救世主「備蓄米」に対して「まずい」「おいしくない」と発言することは、社会的には黄色信号……いや、赤信号だと想像に難くない。
正直な「まずい」には価値がある
一方で、正直な「まずい」という感想には、間違いなく価値がある。
「まずい」の価値① 事故の発見になる
まず、超レアケースの仮定の話だが、モノがほんとうに「ヤバイ物」だった場合。
子供のころ「好き嫌いなんて言っちゃいけません!」が、口癖だったとある大人が提供した食べ物が、思いっきり腐っていたことがあった。幼心に「怖っ……」と思ったのを覚えている。
どんな食べ物でも、口に含むということは、命を脅かす可能性がある。誰かの「まずい」が、事故が広がることを止めるきっかけになりうる。ちゃんと「まずい」が言えることは、命を守ることにつながるのだ。
「まずい」の価値② 改善・改良のフィードバックになる
提供側からの見え方として、クレームを宝の山と捉える視点もある。
消費側からの否定的な感想が届くことで、改善のきっかけになる可能性もある。
もしも備蓄米を食べたほとんどの人が「おいしくない」という感想を抱くものだっとしたら、備蓄(保管)の仕方が悪いのでは?とか、精米方法に問題があったのでは?とか、現実の課題発見のきっかけになりうる。
「まずい」の価値③ どうやっておいしく食べるか、知恵が集まる
②の消費者側のアクションとして、イノベーションの種になる可能性もある。
これは、すごく大きいと思う。
おいしくないものをおいしくないと受け入れてしまったら、そこで思考が止まってしまう。食べられないものを食べられないと受け入れてしまったら「こんにゃく」は生まれなかったはずだ。「どうにかしておいしく食べよう」というマインドは食の文化をつくる力を持っている。
きちんと現実を受け入れることで、「おいしく食べる方法はないか?」と、ポジティブな方向に人々の知恵が向かう可能性がある。わたしはこの余白に、ゾクゾクするほどワクワクする!
「まずい」が言えることは豊かさ
食べ物に対するクチコミやレビューが当たり前の世の中では忘れがちだが、「まずい」が言えるということ自体が、豊かさの一つの表れだったのだと思う。
改めて考えると、社会的に「まずい」が抑圧された歴史のほうが長かったはずだ。たとえば、戦時中や災害時にも、食事に対して「まずい」と言うのはタブーだったに違いない。
「ありがたくいただくべき」「文句を言えるなんて恵まれている」……こういった倫理の圧で、「まずい」なんて言葉を使えない場面がどれだけあったのだろう。
それでも「まずい」が言える世の中であってほしい
わたしはそれでも、「まずい」が言える世の中であってほしい。
もちろん言い方っていうものがあるし、私の意見なんで!という論理で、むやみやたらにネガティブな言葉を撒き散らすのはよろしくない。
それに、主食であるお米が不足するという状況は、限りなく非常時に近いと言える。この状況の中ではどんなお米でもありがたくいただくべきという考えもよくわかる。
だけど、心をこめた「いただきます」「ごちそうさま」のためにも、よりよく、よりおいしくいただく方法を模索するという視点も、忘れちゃいけない。
今回は結果的にはおいしかったから、すべて仮定の話ではあるのだが、「備蓄米をまずいと言ったら炎上する」という状況は、今、けっこうリアルだと思う。
食べることが好きなわたしは、食べものへの正直が尊重される世の中を、やっぱり望んでしまうのだ。