耳を塞いだとき、人は何を失っているのだろうか。
ときどきギョッとするほど大きな足音の人に出会う。たいてい耳にはイヤホンが入っていて、聴覚のフィードバックが機能していない状態になっている。
イヤホンで何かを聞くことは、遮断が起きている。外界との遮断と、自己との遮断。
外界との遮断はわかりやすい。環境音よりも自分で選んだものを聞くという選択こそが、遮断だから。
対して、自己との遮断は、見落とされているように思う。
先の思わず振り返るほどの足音も、自己との遮断によって起きる。聴覚がフルの機能を失うことで、動作音の制御機能が低下する。耳が塞がれているとき、ドアを閉める音、モノを置く音、あらゆる動作音がいつもとは違う状態になっている。たいていは、想像以上に大きくなっている。
自己との遮断は、動作音だけではない。自分の呼吸音、声、身体からの小さな音──そういった「生きている音」までもが、耳を塞ぐことで閉じられてしまう。
人は、自分の出力(動き)に対して、ちゃんと返ってくる音によって、自分がそこにいることを確認しているという。内的チューニングが機能しない状態を、自律神経のバグの原因とみる専門家も多いらしい。うん、実感としても納得がいく。
外界と遮断して、自己とも遮断をして、一体、何とつながっているのだろう?
1979年、今から46年前にウォークマンが誕生したらしい。耳塞ぎネイティブ世代のわたしもまた、耳を塞ぎながら、少しずつ、親世代とは異なる「変容」をしているのかもしれない。
自らの意思で耳を塞いで日常を過ごす──そんな人間はかつて存在しなかった。我々は、30万年の人類史で初の、耳を塞いで生活する者が現れた人類だ。
300年後くらいの心理学者が「耳を塞いだ人類」として私たちを研究してくれるなら、それもまたロマンである。